フランケンタール

フランケンタールのフィギュアを1つ手に入れましたので、フランケンタールについて書いてみます。

フランケンタールは1755年から1800年頃まで、ファルツ地方、マンハイムの北西にある町で作られていた窯です。

おおまかには、初期のものはストラスブールに似ており、そのあとはマイセンに似て、そしてヘキストに似ており、その後同じものがニンフェンブルグで作られるという少しややこしいことになっています。

この窯は、フランケンタールから200kmほど南のストラスブールの町とハーゲナウの町で1738年より軟質磁器を作り成功していたハノン家が、フランスでは王立のセーブル窯以外に硬質磁器を作ることが許されなかったために、ドイツのこの土地に窯を開いたのが始まりです。

ストラスブールの軟質磁器じたいもとても高価で、テリーヌ1つでストラスブールの町中に家が買えるほどの価格でしたが、1710年代にマイセンが硬質磁器は同じ重さの金と言われていましたのでさらに高価。パウルハノンはなんとしても硬質磁器を作りたかったのでしょう。

しかしオーナーのパウルハノンは窯を開いた5年後、1760年に亡くなり、1762年にはこの窯はファルツの国営になります。

磁器工場というのは莫大な富を生み出すため、当時の最先端の工業でした。国をあげて錬金術をしていたようなものです。フランケンタール窯が作られた1750年、この町は人口が1400人しかいませんでしたが、1772年には人口は3025人に増え、その時には窯で働いていた人数は1075人でした。窯が閉まるまでだいたい1000人前後が常に働いていました。
磁器の値段はだんだんと値下がりしますが、それでも一般庶民には手が出るものではなく、庶民が磁器を使うことができたのは20世紀に入ってからです。日本では江戸時代でも酒屋の貸し徳利などに使われて一般的なものでしたが。そのような事情は知っていたかどうかはわかりませんが、18世紀のヨーロッパ人が日本に来たならば高価なものを普段使いにしていることにさぞ驚いたことでしょう。

フランケンタール窯は、ナポレオン戦争でずいぶん揺れ動き、1777年にファルツ地方がバイエルンの所有領になり、その後1801年からはこの地方がフランスに譲渡されて窯を閉めることになってしまいます。この地方はフランス占領後は140年ほどずっとバイエルンでしたが、第二次大戦後にやっとまたファルツの名前に戻りました。

次回はパウルハノン以後のデザインについて書いてみます。

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フランケンタール磁器が配置されたテーブル。(銀もガラスも同じ時代のものが配置されています。)

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ストラスブールの軟質磁器、パウルハノンの逸品。(過去に扱ったものです)

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フランケンタールのイノシシのフィギュア。
ストラスブールのイノシシのフィギュアにとても似ています。(ストラスブールのイノシシのフィギュアはバンベルグ旧市庁舎の美術館でたくさん見ることができます。)

リューベクの町

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ロイヤルコペンハーゲンの花瓶とB&Gの花瓶。

イニシャルは船のものはついていません。花のものはZ.T 2つのB&GはH.Zです。船の花瓶は44cmあり迫力があります。

ハンザ同盟都市のリューベックは旧市街がぐるっと運河に囲まれており、地図で見るとストラスブールの旧市街を連想しますが、実際に行ってみると旧市街部分が丘になっていて驚かされます。

大聖堂のまわりに同じぐらい大きな教会がいくつもあり、そびえ立つ7本の塔は見応えあります。
屋根や尖塔には銅が貼られて、中部ドイツとは全く違う文化圏を感じます。

 

海岸を歩く

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これもロイヤルコペンハーゲンの花瓶です。

オストゼー(バルト海)の海岸はどこまでも平地ですが、風が強く、木はまばらで、ドイツのロマン派絵画に描かれるような、静かな美しい景色が広がっています。

 

船と城が描かれた花瓶 ロイヤルコペンハーゲン

 

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ロイヤルコペンハーゲンの大きな花瓶を手に入れました。表と裏に帆船、デンマークの城が描かれています。

サイズは44cmと、とても巨大です。画家のイニシャルはF.Pです。

描かれた海を見てみようと、オストゼーの海岸までやってきました。海は静かで、空の色も海の色も灰色がかった青。

海岸沿いには日本の藁葺き屋根ににた屋根を持つ、しかしレンガ造りの家が立ち並び、どこまでも静かな光景が広がっていました。